鷹狩り
HUNTING with HAWKS

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    鷹とともに生きる ─「第3回・松原英俊の自然塾」体験記─

  J.N.(神奈川)

 白銀の斜面を音も無くこげ茶色の翼がすべる。次の瞬間、「ピィッ!」おとりの軍鶏(しゃも)の悲鳴が響く。

 鷹の狩りはまさに一撃だ。遠方の小柄な軍鶏の羽ばたきも見逃さない視力はヒトの8倍。鋭く湾曲した爪で捕らえられた軍鶏は身動きすら出来ない。ボネリークマタカの「武蔵」(むさし)は自分の獲物を奪われまいと全長1.5mの翼を天蓋のように広げて足元を覆い隠しながら軍鶏の頭部をあっという間に食いちぎる。
 続けて新鮮な内臓を採食すべく、無力化した相手の羽根を一枚ずつ嘴でむしり始める。「ブチッ、ブチッ・・・」生々しい音とともに、手品師のあやつるカードのように雪の上辺り一面に黄金色の軍鶏の羽根が一枚、また一枚と撒き散らされてゆく。「鷹匠の自然塾」参加者たちも息を詰めて見守っている。

 しかしここで斜面を駆け下りてきた鷹匠が軍鶏を取り上げ別のエサで誘導すると武蔵は獲物に未練を見せながらも素直に鷹匠の左腕の分厚い革手袋に飛び乗り羽をたたんで大人しくなった。
 「鷹は人間のために獲物を捕っているわけではなく、あくまで自分が生きるために狩りをする。だから放っておくと全部食べてしまうんです」。

 鷹匠として

 山形県鶴岡市田麦俣。月山を望む人口百二十二人、二十七世帯のこの農村地域に鷹匠・松原英俊が移り住んで二十年以上になる。中学時代に見たテレビドキュメンタリー「老人と鷹」に衝撃を受け、大学卒業後すぐにそのモデルである鷹匠、故・沓沢朝治の門を叩いた。六度の門前払いを乗り越え自宅近くに野宿しながら弟子入り志願に通った松原氏の鷹匠への思いは並大抵ではない。
 「ほとんどの弟子が続かなかった。結局は私の鷹への愛が皆より勝っていたのだと思います」
 師匠のもとを離れた後、8年間にわたり電気もない山奥の小屋でひとり、鷹と狩りをして暮らした。雪洞にロウソクを灯し長期寝泊りしたこともある。
 「鷹の信頼が得られるまでは、寝ている間に鷹に襲われないかとヒヤヒヤしました」。

イヌワシの「コンロン」。見つめる松原氏の眼差しに愛情が満ちる。

 消えゆく技術

 鷹狩りの起源には諸説あるが、紀元前千年ころにはすでにモンゴル、中国、インド、トルキスタンといった広大な平野を擁する土地で広く行われていたようだ。特にモンゴルでは戦士の最高の教科とされ、「東方見聞録」にはフビライ・カーンが一万人もの鷹匠を率いて大規模な鷹狩りを行っていたとの記述がある。
 国内においては四世紀仁徳天皇の時代に始まり(日本書紀の記述による)公家の遊興から次第に武士階級のたしなみとなり江戸時代には家康、家光、吉宗がとくに鷹狩りを楽しんだとされ、なかでも吉宗の「お鷹匠組」は数千人から成る大規模なものだったらしい。

 こうした「御用」鷹匠とは別に、東北を中心として民間でも古くから生業として鷹狩りが行われてきた。「御用」鷹匠が人里近くでやや小型の鷹を使うのに対し民間の鷹匠(※)は山奥で大型のクマタカやイヌワシを使ったダイナミックなスタイルの狩りを行ってきた。しかし戦後の近代化と獲物の減少に押され、民間鷹匠は続々廃業してゆく。
 松原氏はこの民間鷹匠の流れを汲む最後の鷹匠だ。

 注※「鷹匠」は殿様お抱えの「御用」技術者を指し、民間のものは本来「鷹使い」と呼ばれる。ここでは便宜的に「鷹匠」の呼称を用いる。

 鷹とのつきあい

 松原氏が主に狩りのパートナーとしているクマタカの爪は最長部で5センチに達する。握力は成人男子以上、服の上からでも襲われれば相当な重症、時には致命傷を負うことになる。
 鷹は気高い動物として知られる。なつくことなどありえないようにも思われるこの最大級の猛禽を自在に操る背景には、非常に繊細で巧緻な数々の伝統訓練技術を前提とする、気の遠くなるような忍耐の連続がある。その手順の一端は以下のようなものだ。

 訓練は真っ暗闇のなか鷹を腕に止めることから始まる。鷹匠は一週間前後、一日のほとんどを費やし鷹とともにひたすら闇の中に座り続け、闇に対する本能的不安から鷹が沈静化するのを待つ。
 鷹が落ち着いて腕に止まるようになると、次は徐々に明かりに慣れさせてゆく。最初は一本の小さなロウソクを灯し、パートナーである鷹匠の顔を浮かび上がらせる。鷹が動揺しなくなるのを見て徐々に明かりを増やしていく。完全な明るさの中で腕にじっとしているようになるまでには一日十時間かけても二十日以上かかる。
 次の段階でやっと戸外に出るが、これも明るさの段階を追うことになる。夜中、夜明け、そして昼間の人通り。ここまででたっぷり一ヵ月半の期間を要する。
 これをクリアするといよいよ狩りの訓練に入る。重要な「呼び戻し」訓練は鷹につないだひもを徐々に長くしていきながら行うが、最後はひもを外して呼び戻す。どこまでいっても野性を失うことのない鷹はこの瞬間彼方へと飛んでいってしまうかもしれない。鷹匠にとって緊張の瞬間だ。
 松原氏もこの段階での苦い失敗を経験している。ひもを外した鷹が逃げ、「後悔と絶望の思いにかられながら、二日間雪のなかを探し回った」。
 失明の危機にさらされたこともある。「えさを与えるときに檻の中につい頭から入っていってしまい、はっとした時には鋭い爪で顔面を掴まれていました。失明したと思ったが、目に食い込んだ爪が眼球から5ミリ逸れていて助かったのです」
 顔じゅう血だらけの大怪我だったが「病院には行かず、消毒もしませんでしたが自然に治りましたね」。

松原氏と武蔵。5時間の道のりを左腕に鷹を乗せたまま歩き通す。

 命の危険を幾度も経験しながらもこだわり続ける背景には鷹匠としての強烈な原体験がある。
 「四年半かかって初めて自分の鷹が狩りを成功させたときは、腹の底からふるえる程の感動を覚えました。この一瞬を追い求めて来たんだ、この日のために生きてきたんだ、と。その後幾度も挫折することがありましたが、自分にはこれしかない、貧乏しても自分は一生これをやるのだという一心でどうにか続けてこられたのはあの日の感動があるからです」

 雪山を歩く

 今回私の参加した「鷹匠の自然塾」は、かんじきを履いての品倉山(標高1211m)登頂がメインテーマ。松原氏がふだん鷹の訓練場として歩き回っている山を一緒に登り「鷹匠の自然」を体感することが目的だ。
 「登山コースとしては『初級』のなかの『中』のレベルです」出発前の松原氏の言葉に一瞬でも気を緩めた自分の甘さを、数時間後思い知らされることになる。
 コースの始点である湯殿山スキー場ゲレンデをやや入ったところで和かんじきを履く。スタッフに装着法を教わるが私のものはヒモがだいぶ短かったようだ。
 しかしなんとか買ったばかりの黒のゴム長靴にかんじきを装着し終え、なだらかな斜面に向けてスタート。このあたりは前夜に降り積もったばかりのふかふかの新雪。十数年ぶりの感触に感激するも、五分も歩くともう息が上がってくる。かんじきで雪の上を歩くのがこれほど疲れるものとは思わなかった。冷えると思って予め履いてきたズボン下がじっとり汗ばんで歩みをさらに遅くする。街の常識は雪山の非常識。しまった、と内心舌打ちしながら隊列についてゆく。

 東北の壮大な雪景色の中を歩いているが、歩行中は足元ばかりを見ている。スタッフ合わせて二十名弱の参加者の中から時折「ウサギの足あとだね」「これはカモシカ?」と声が上がる。目をやると絹のように滑らかな新雪の上に点々と動物の足あとがついている。大きさも歩幅もさまざまだがいずれものんびり散策といった様子ではない。
 生き物達がそこここに潜んでいる。一瞬一瞬、いのちを賭けながら。
 ひたすら足元だけを見、雪を踏むおのれの足音と荒い呼吸音だけを伴奏に足を進めつつもそのことを全身が感じている。否応無しに入ってくると言った方が正確かもしれない。雪山で生き残る一匹の動物となり果てポテンシャルの呼び覚まされた五感に、彼らの緊張、そして自然の無情なまでの威厳がじんじんと伝わってくる。

 二十分歩いたところで最初の休憩。すでに何十年ぶりか、いや生まれて初めてとも思えるような消耗感だ。呼吸がなかなかおさまらない。雪山の冷気が容赦なく口腔内を乾かす。後先考えずスタッフから支給された水入りペットボトルを口に突っ込むと身体がスポンジと化したかのように吸収していく。生き返る!水がこれほどありがたく思えたのはいつ以来だろう。
 そこから休憩を挟みつつ一時間ほど歩いて品倉山の麓(ふもと)に到着。這うようにしてようやくたどり着いたここが「スタート地点」とは!
 しかし眼前には山あいにぽっこり顔を出した白く輝く月山、そしてそれに連なる品倉山の山頂も確認できる。これまでの苦労を思えばなんだか小さくすら感じられる。
 ここにベースキャンプを張り昼食。パーティ内にもういやだ、という空気は微塵もない。みな自分と同じく身体はぎりぎりの状態だが、その表情には一様によろこびと充実感が表れていた。雪の侵入対策を怠った私のゴム長の中は、分厚い登山用靴下もズボンも、その下のズボン下も氷水に浸っている状態だった。しかしそんなことはもうどうでもよくなっていた。

 登山再開。われ先に歩き出す参加者たち。身体が冷えたのかひと休みのあとの足はひときわ重く、歩き出すとすぐそこに見えていたはずの山頂が果てしなく遠く感じられる。
 と、最初の急斜面を登り始めてまもなく、先を行く参加者の片足がズボッ、と雪の中に「落ち」た。「あっ!」瞬間全員に緊張が走る。だが前後を歩く他の参加者は山歩きの素人、まして雪山登山の経験などない者ばかりだ。意識の隅に追いやっていた恐怖が突然目の前に現れ、とっさに硬直してしまいどうすることもできない。
 さらに言えば、その時おそらく全員のなかに「この人は終わったかも」との冷徹な予想がよぎった。それと同時に「自分でなくてよかった、しかし一瞬ののちには自分がああなるのかも」との安堵と不安の錯綜した複雑な感情がわき起こった。その場面を体験した誰もが認めざるを得ない、それが自然のただ中における「現実」なのだ。

 幸い穴は小さな範囲に限られておりすぐに脱出することができた。ぽっかり開いた穴の下には木のてっぺんらしきものが見える。この下には木々が丸ごと埋まっているのだ。
 先刻の悪夢を振り切るかのごとく、みな憑かれたように歩き続ける。体力は限界をとうに越えている。ランナーズハイというものなのか、「いける」と思っているのに足は思うように上がってはくれない。もはや意思を離れた自分の足は、注意深く監視していないとすぐさま勝手に踏み外して斜面を滑り落ちていきそうだ。一メートル進むのに何秒かかっているだろう。
一歩、また一歩と山頂に近づくにつれ意味不明な笑いがあちこちからこぼれる。もうすぐだ。

 ザッ。ザッ。ザッ。着いた。見上げる斜面はもうどこにもない。山頂だ。すぐ向こうには真っ白な月山、湯殿山のしんとした清楚なたたずまい。思わず手を合わせて拝みたくなった。見渡す限りの蒼い空。空気も特別なものに感じる。「いちばんいい顔」になっているのが自分でもわかる。
 皆も最高の笑顔だ。達成感ですべての疲れが吹き飛ぶ。登山って素晴らしい。本当に来て良かった、最高だ!

 松原氏の表情が輝く。「どうですか、大変だったでしょう。」
 鷹匠・松原英俊が伝えたいのはこれなのだ、とはっきりわかった。山あっての、自然あっての鷹狩りであり、鷹匠なのだ。

山頂にて

 鷹匠の思い

 松原氏は各所で講演も行っている。鷹を連れて首都圏の大学で講演をしたときには、壇上に上った教授が不用意に鷹に近づいてしまいネクタイを文字通りわし掴みにされた。「ヒヤッとしましたが大事には至りませんでした」。あわやの惨事を淡々と語るのも、越えられない「野生の壁」の厚みを熟知している氏ならではだろう。
 テレビのドキュメンタリー番組や雑誌、書籍にも数多く登場してきたが、一貫するのは野山を歩く素晴らしさを知り、自然に親しんでほしいという思い。今回の「自然塾」パンフレットにもその思いの一端を紹介している。
 「心の問題がクローズアップされる中で、自然と人間の『共生』や『調和』が叫ばれています。(中略)とはいっても、自然を忘れてしまいそうな遥かな場所にいて、いったいどうすればいいのでしょう」。

 越えられぬ野生を腕に携え鷹匠は今日も山をゆくのだろう。都会に戻った私の身体に、あの山でたしかに感得した妖力の残り火がくすぶっているような気がした。                                             



参考文献「もっと知りたい野生動物の歴史」江口保暢 早稲田出版

(この記事は「宣伝会議 第12期編集・ライター養成講座」の卒業制作として作成されたものです。)