昭和三十八年上京した僕は、目黒に下宿を見つけた。四畳半一間で二食付き、一ヶ月一万一千五百円だった。
その年弟が修学旅行で上京したので、訪ねたら土産で買ったらしいウクレレがジャマだから、僕に預かってくれという。僕はウクレレを下宿に持ち帰り、ときどき爪弾いた。そのうちに古本屋で教本を見つけコードを覚えた。
それがいつかギターに変わった。自己流で『君といつまでも』や『空に星があるように』などを歌い、夢中になった。この年の冬、父親はコタツを買うための金を送ってきたが、僕はその金でテープレコーダーを買った。そのため東京で迎えた最初の冬は暖房機具なしだった。しかし東北から出て来た僕には、東京はちっとも寒く感じなかった。
そのうちコードを繰り返し弾いているうちに、ふと新鮮なメロデーが口をついて出ることがあり、もしかしてこれが作曲というものではないだろうか?と思うようになった。僕はテープに吹き込み、友達に聞かせた。友人のY君は「いいね。ユニークだね。南って天才かも知れないね」とおだてた。
僕は作詞・作曲に没頭し明け方まで寝なかったので、それでずいぶん周囲に迷惑をかけた。ドアに毛布を張ったり、音の漏れない工夫を色々やったが、ギターを指で弾いていたのでは、どうしても音が大きくなる。そこで究極の技ともいうべき、絵筆の先を切って、毛の部分で弦をなでるように弾いた。
まあ、それでもずいぶんはた迷惑だったろう。下宿の若奥さんが僕と同郷で、ずいぶんとかばってくれたのを有り難く思い出す。
電車に乗ったときは、次の駅に着くまで一曲考える、という遊びをやった。詞とメロデーを同時に作るのである。ここでもY君が「うーん、七十点」などと判定役だった。まるで江戸時代の連歌会のようだった。
ただ、当時は作詞・作曲家になろうなどとは、露ほどにも考えていなかったのである。
つづく