「酔いどれ女の流れ唄」がヒットしたことは、ある意味で不幸だった。ジャズやカントリー、フォークソングばかり聴いていた僕には、演歌という項目はなかった。
「酔いどれ−−」のヒット後、演歌や歌謡曲の注文ばかりが来た。僕はうまく対応できず、作詞・作曲家としての人気は、急速に冷えた。
しかし、時代はエレキブームからフォークブーム、そしてシンガーソングライターの時代へと移行していた。自分の言葉で自分の生き方を歌う時代になった。
ある日JR三鷹駅に降り立った。北口のシデの木の下に「山林に自由存す」と書かれた国木田独歩の石碑があった。学生時代読んだ「武蔵野」がなつかしかった。僕は木々を仰ぎ見ながら「この町に住もう」と決めた。
わずかばかりの荷物を友人のトラックに積んで、バス通りのアパートに越して来た。友人が「じゃもう帰るよ」と帰った夜、1LDKの部屋は海のように広く茫洋としていた。僕は心細さに震えた。
この頃体調は最悪だった。そのくせ飲み屋に入り浸っていた。誰かが僕に連絡をとりたいと言えば、飲み屋の名刺を渡した。一つ二つ恋らしきものもしたが、うまく行かなかった。腹いせに憎まれ口を歌にした。「ウイスキーの小瓶」である。
めずらしくこの歌に引き合いが来た。日本フォノグラムのディレクターKさんが、僕のアパートに新人の俳優中村雅俊を連れて来た。この有望新人は下駄を履いていた。聞くと出身が宮城県石巻高校。僕の築館高校とは兄弟校だった。縁を感じた。
しかし「ウイスキーの小瓶」は雅俊さんの幻のデビュー曲になった。彼は当時若く、他にふさわしい曲があるはずだ、と保留になったのである。この宙に浮いた「ウイスキーの小瓶」が、僕に回って来た。ディレクターは電話で僕に言った。「らんぼうさん、一生の思い出にレコード一枚出さないかい?」と。
つづく