ナポレオンの真似をして言うと、僕の辞書には歌手という職業はなかった。「ウィスキーの小瓶」をレコーディングしないかと誘われた時はもう二十九歳。しかし幸い夢は弾けずにポケットにあった。僕は最終列車に飛び乗るような気持ちで歌手になった。
ビクターの青山スタジオは当時東洋一といわれた。そこに武蔵野の仲間たちが駆けつけた。学生が主体で中にはフランスからの留学生の女性二人がいた。画家や浪人生もいた。彼らは今風に言えば、僕のサポーターで「ウィスキーの小瓶」を空で歌えた。そこでバックコーラスのボランティアにやって来たのである。
スタジオ内はアルコール禁止だったが、皆ビールやらウィスキーを上着の下に隠し持って入ったので、歌入れの時にはすっかり出来上がっていた。ともあれ歌うときはいつも酔っていたが、その日は緊張のあまり飲み過ぎて、OKが出たときは半分寝ていた(笑)。 夜武蔵野に戻って古里の父に電話した。「今吹込みして来た。歌手になることにした」と報告すると、父は「とうとうお前はカスになったか」と言った。僕の田舎では歌手はカスと発音した。カスにはなるまいとしみじみ思って電話を切った。
もう一つの田舎の友人に電話した。金の無心である。「歌手になっちゃうと、事務所もない身だから、とり合えずの生活費に困るんだ」
「どれぐらいいるの?」
「二十万」
友人は何も聞かず「わかった。すぐ送る」と答えた。僕は電話機に深々と頭を下げた。 レコード会社のKディレクターは、僕が身体が弱いのを心配して、わざわざ近くに引越して来た。早朝にラジオ出演などで出掛けるときは、玄関の外で待っていた。
このように一つの歌が仲間を呼び、若い力で”みらみらんぼう”が作られていった。僕はもう一度戻れるものなら、この時代に帰ってみたい。青春の風が吹いていたあの時代に。
つづく