ララジオ出演テレビ出演ときて、次はコンサートだった。レコーディングでさえ悪戦苦闘したのに、舞台の上で何曲も歌う力量はなかった。初めはなぎら健壱のゲストで二曲歌った。それでメドがついて次はジョイントコンサートだった。当時十九歳の千代正行がガットギターで僕のバッキングをした。彼は僕がコードを間違えると、とっさに自分もそのコードを弾いた。多くの客は僕の間違いに気付かずにすんだ。
なぎらさんのステージを見て、僕はやり方を学んだ。彼は半分以上話し笑わせ、たまに歌った。「なるほど、これでいいのか、これならやれるかも知れない」と悟った。しかし甘くはなかった。
ある夜新宿の「ルイード」でライブコンサートがあった。客はまずまずの入りだったが、僕は風邪気味で疲れていた。いつもなら二三杯ひっかければ正常になるのだが、その夜はかえってボルテージを下げた。オハコのギャグでは先にオチを言ってしまったり、歌詞を間違えたりした。こんな夜はあり地獄に落ちたありのようになる。盛り上がらずステージが終わった。
その楽屋に予期せぬ訪問者があった。「まあ良かったわ、すごく楽しかった!」。百万本の、いや普通のバラの花束をかかえた加藤登紀子だった。僕は訪ねていただいた喜びよりも、不調な歌を聞かれてしまった不運の気持ちの方が強く、軟弱な言い訳をした。
お登紀さんはさえぎり「誰にでも好不調はあるの。でもあなたの個性はちゃんと出てた。となりに座ったお客さんは一緒に歌ってたわよ」
そのころ、僕はそろそろ潮時かなと思っていた。「レコードも出したし、コンサートもやったし、充分満足した」と。
お登紀さんはそれを見透かしたかのように、「しっかりしなくちゃ駄目」と、登紀子スマイルを見せた。お登紀さんは僕の「酔いどれ女の流れ唄」や「ともだち」などをカバーした。
つづく