今はどうだか分からないが、僕がシンガーソングライターとして、世の中に出た1973年は、年間で新人歌手が662名誕生した。そのほとんどは数曲、あるいはたった1曲で消えていったりする。無印だった僕が還暦まで歌って来られたのは、ちょっと考えられない出来事だった。
先日千葉県の茂原市の友人を訊(たず)ねた。名前を生松義久さんといって、彼も僕と同じディレクターの下でレコードを出した。今は茂原の駅近くで「ZigZag」というステーキハウスをやっている。長い無沙汰(ぶさた)が気になり、遠慮がちに電話を入れると「うまいステーキ食わせるからすぐ来てよ」と喜んでくれた。駆けつけるとゴマ塩頭にコック服姿の生松君が、ニコニコ笑って迎えてくれた。20年のブランクが一瞬で埋まった。
店にはマイクスタンドなどが置いてあるので「たまに歌っているのか?」と聞くと「ああ、つい最近大網市でコンサートをやったばかりだよ」と意気軒昂(けんこう)だった。「昔より声が出るようになったよ。男は50過ぎないと駄目だね」とまでいう。店が成功し、2人の息子さんも立派に育ち、そうした自信が、発言などにも反映される。歌にも説得力が出て来たのだ。
「らんぼうさん、いい詩を書いてよ。いい詩ほど気持ちを込めて歌えるんだから」と、矛先が僕に向かって来た。ジグザグ自慢のステーキをいただきながら、ビールを飲んでいると、「そうだ、俺茂原市の西陵中学の校歌作ったんだ。ちょっと聞いてよ。」そういいながらもうギターを抱えている。
〜緑の丘にこだまする
我らが熱き歌声は
天まで届け永遠に
汗と涙に希望を見て…
青春がギッシリ詰まったような、ハートフルの歌声だった。ああ、彼は前を見て、しっかり人生をやってるんだ、と思い胸が熱くなった。レコードは売れなかったが、トライした体験が人生に生かされている。「そのうち一緒にコンサートやろうよ、らんぼうさん」と、すっかりハッパをかけられてしまった。
つづく
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