集団全体への働きかけを中心とした新しい予防医学の戦略(ポピュレーション・ストラテジー)の活用
福井産業保健推進センター
産業保健相談員 新井 芳行
本年度より始まったメタボリックシンドロームを対象とした特定健診・特定保健指導の際にポピュレーションアプローチという新しい概念の説明をしたいと思います。
健診の事後指導では、リスクがある人に対しては医療、保健指導を行い、無い人に対しては何もしないという二分法に基づいた指導が行われていることが多いと思います。しかしこの指導法は正常と異常が明らかに二分できる感染症、癌等に対しては効果的ですが、生活習慣病のような全体にリスクが連続している場合にはあまり適切ではありません。ある基準値を設定しても、その値よりも低いからと言っても発病しない訳では無いという問題点が有るからです。
図1には、米国で実施された循環器疾患の多重危険因子への大規模介入研究(Multiple
Risk Factors Intervention Trial: MRFIT)における健診時の血清総コレステロール(TC)値の分布と6年間の冠動脈疾患死亡率(右上がりの曲線)と同死亡者全体に占める各TCレベルの割合(棒グラフ上の数字)を示します。
図1

TC値が260mg/dlを越えると、152mg/dlに比べて、冠動脈疾患死亡の相対リスクは5倍近く高くなることが分かります。このことはTC値が260mg/dl以上の高リスクの個人に対して、冠動脈疾患による死亡を予防するためにTCを低下させる必要があることの根拠になります。しかし、冠動脈疾患死亡者全体の内訳をみると、健診時にTC値が260mg/dl以上のハイリスクのものは棒グラフ上の数字から17%(9+8)にしか過ぎないことが分かります。222から259mg/dlまでの境界域からの死亡者は全体の32%、194から221mg/dlまでの正常高値からは39%を占めています。すなわち冠動脈疾患死亡者全体の71%は、境界域と正常高値群から発生しています。つまり、高リスクの人たちへ働きかけをして、たとえうまく高リスク者を減少させても、全体からみた罹患率や死亡率の減少は大きくないことが推測されます。まさしく小さなリスクを負った大多数の集団から発生する患者数は、大きなリスクを抱えた少数の高リスク集団からの患者数よりも多いという予防医学の根本的な原理・原則である「予防医学のパラドックス」が当てはまります。集団全体にリスクが及ぶ場合に、有効な予防医学の戦略を展開するためには、多くを占める境界域と正常高値に属する人たちへの適切な働きかけが重要になってきます。この集団全体への働きかけを中心とした予防医学の戦略をポピュレーション・ストラテジーと呼び、従来からの高リスク者への働きかけを中心とした戦略を高リスク・ストラテジーと呼びます(図2)。
図2

高リスク・ストラテジーは方法論も明確で対象も明確にしやすいという利点がありますが、影響の量は限られています。ポピュレーション・ストラテジーは集団全体に働きかけて適切な方向にシフトすることを目指すもので、高リスクのみならず、境界域や正常高値に含まれる多くの人々もリスクを減らしますので、全体としてのリスクの減少は大変大きなものになります。しかしポピュレーション・ストラテジーには集団全体への働きかけを必要とし、効果を定量化しにくいことが多いという欠点があります(表1)。
表1

効果的な医療、保健指導を遂行するためには従来からの高リスク・ストラテジーに加えてポピュレーション・ストラテジーを適切に組み合わせて、対策を進めることが必要です。
参考文献
:地域診断の進め方;根拠に基づく健康政策の基盤
水島春朔 著、医学書院、2000
:予防医学のストラテジー;生活習慣病対策と健康増進
ジェフリー・ローズ 著、水島春朔 訳、医学書院、1997